![概要](img/stitle01.jpg)
さぬき十五社 第一番 / 曼荼羅霊場 第七番 / さぬき七福神 恵比須神 | |
鎮座所 | 香川県東かがわ市松原69番地 |
祭神 | 日本武尊(ヤマトタケルノミコト) 両道入姫命(フタジイリヒメノミコト) 橘姫命(タチバナヒメノミコト) |
境内神社 | 五宮神社 祭神 仲哀天皇 神功皇后 應神天皇 稲依別王 武皷王 |
三社神社 祭神 吉備武彦 大伴武日 武内宿禰 |
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青山稲荷神社 戎神社 | |
境内地 | 四万坪 |
氏子区域 | 東かがわ市松原 白鳥 三本松 原間 |
![裏境内地](img/img01.jpg)
![裏境内地](img/text02.jpg)
当社の裏境内地は松林にして広さ十三町歩にわたり国立公園白鳥松原の
称あり。
白砂青松風光明媚の地にして白鳥海岸これに続き渺茫たる播磨灘に臨み、
遥かに阪神播備の地を控え四季遊覧客絶えず。
瀬戸内海国立公園に指定され、松原は御山(みやま)と呼ばれ、
海抜3.6メートルで、自然の山として日本一低い山である。
![香り風景百選の「クスノキ」](img/img02.jpg)
![かおり風景100選の「クスノキ」](img/text03.jpg)
境内には約十本のクスノキがあり、環境省が選定したかおり風景100選の一つに選ばれている。
中でも香川県の保存木に指定されているクスノキは、樹齢約八百年、
高さ約三十メートル、境内の森に一段と威容を誇っている。
![虎頭の舞](img/img03.jpg)
![虎頭の舞](img/text04.jpg)
虎頭の舞は、白鳥神社秋祭の渡御にお供する獅子舞の一種である。
江戸時代、近松の歌舞伎「国性爺合戦」を取り入れ、
少年の和唐内が虎を退治する趣向で、県下でも数少ない舞である。
無形文化財に指定されている。
![由緒](img/stitle02.jpg)
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は人皇(ジンコウ)十二代 景行(ケイコウ)天皇の皇子に在らせられ、勅命に依りて九州中国を、その後東国を征定し、帰途の途次 、近江国の伊吹山にて病に触れさせ給ひ尾張国を経て伊勢国能褒野 に至り病篤 く、終に亡くなる。実に、景行天皇四十一年なり、天皇その功をたたえ、武部を定め群臣に命じその地に山陵を造り厚く葬る。群臣入棺し奉 りしに、神霊白鶴に化し西方に飛び去る、棺内にはただ衣冠のみ空く在す、その白鶴は大和国琴弾原に、また飛て河内国旧市の邑に至りまた更に飛て讃岐国大内郡鶴内の里に止りる。よってこの所に神陵を建てさせる。成務天皇の時代、天皇の御兄弟神櫛王(カングシオウ)をして日本武尊の御子 、武皷王(タケミカツチノオウ)に従わせて、讃岐の国造に封じ神陵を作らせる(武皷王の神陵は綾歌郡に、神櫛王の神陵は木田郡牟礼町にあり)。日本武尊の御子 仲哀(チュウアイ)天皇の時代神籬 を建て封戸を寄らせる。今の神社即ちその御跡である。その後一盛一衰あるが、武家は弓矢の神となし崇敬深い。寛文4年讃岐守高松藩祖松平頼重(ヨリシゲ)侯 おおいにその規模を拡め、社殿の修築をなし、領地をさき神領に寄し、幕府の朱印地に改めた。明治五年県社に列せられ現在に及ぶ。
![日本武尊の話](img/stitle06.jpg)
![日本武尊](img/img04.jpg)
熊襲の国ではタケルの宮殿が新しく造られ、各国造の客人で宴がたけなわです。その時、宮殿が闇となり、その一瞬にタケルが殺されます。そして混乱の中で、自分を討った小碓に、自分の名をとりヤマトタケルと強者の魂を授けました。
大和国に熊襲より帰ったヤマトタケルでしたが、父帝は蝦夷(えみし)征伐に行けと命じます。ヤマトタケル命は、伊勢の倭姫を訪ね、出発します。
相模の国造の計略で四方を火に囲まれ、倭姫にもらった火打石と剣で難を逃れます。
次に走水の嵐の中で橘弟姫は海に身を踊らせ、海を鎮めます。
大和への帰りに伊吹山の神の退治に出かけ、病に冒され、能煩野(のぼの)で息を引き取ります。しかし、ヤマトタケルは白い鳥となり、飛び去ったと伝えられています。
そして、讃岐の国松原村に舞い降りて、白鳥神社として祀られた。
![日本一低い山「御山」](img/text01.jpg)
平成十六年、神社がある東かがわ市松原も床上、床下浸水の災害にあいました。
この松原地区でいったいどこが高いのかを調査したところ、白鳥町都市計画図(平成七年)の中に一番高い3.6メートルを発見。
そこが一番低い山と、町づくりに取り組んでいる「こま犬会」がホームページに掲載しました。
そして、「郷土史」より通称みやまが御山であることが確認されました。
平成17年8月7日に山開きを開催。
平成17年11月18日に登山証を作成。
平成21年正月には5,000名の登山証を発行。現在7,000名をかぞえる。
日本一と認められるのは、国土地理院発行2万5千分の1の地図に掲載されることです。
現在は天保山4.5メートル(人工)、日和山5.8メートル(人工)、弁天山6.1メートル(自然)です。
人工、自然は別として
1、地元住民が山と呼んでいるか。
2.地元自治体が公式名称にしているか。
3.国土地理院が妥当と判断するか。
などの意見もありますが、どちらにしても自称からの出発です。
![さぬき七福神](img/stitle04.jpg)
![](img/img05.jpg)
白鳥神社 恵比須神(えびすしん)
田村神社 布袋神(ほていしん)
滝宮天満宮 福禄寿(ふくろくじゅ)
與田寺 寿老人(じゅろうじん)
法然寺 大黒天(だいこくてん)
香西寺 毘沙門天(びしゃもんてん)
国分寺 弁財天(べんざいてん)
以上三社四寺の神仏混ごうです。
それぞれの神社仏閣は、古より篤い信仰を集めており、それぞれの福神を祀る由緒ある社寺です。
七福神の社寺それぞれにカードを授与しております。また、七福神の軸もできました。
三社四寺を巡り、東かがわの歴史とロマンを楽しみ、ご参拝ください。
![白鳥神社の宝物](img/stitle05.jpg)
![太 刀](img/01.jpg)
青江正恒作、折紙付、鮫柄紫糸巻、鞘梨子地金葵紋付、黄金作、長さ二尺四寸
(72.2センチ)、享保七年(1722年)9月、第三代高松藩主松平頼豊奉納。
青江正恒は岡山県青江の住人。鎌倉時代の建久年間(1190年頃)の名刀工として有名。
『折紙』
「青 江 正 恒 太刀 正真(長さ弐尺四寸少 磨上之) 代金子 拾枚 宝永元年申(1704年) 六月三日、本阿 花押」
![甲 冑](img/02.jpg)
白糸縅(おどし)、寛文4年11月24日、松平頼重奉納。
同5年1月18日、白鳥神社の神前において行われた、
養嗣子頼常の鎧の着初式に着用せられた。
![甲 冑](img/03.jpg)
紺糸縅、葵紋付、藩主着用のものという。明治4年10月(一説6年)、第十二代藩主松平頼聡奉納。
![石 剱](img/04.jpg)
長さ一尺二寸(36.7センチ)、幅中央部一寸四分、弥生時代の遺物。享保20年、高松北浜の漁師が、庵治沖の海中より引き揚げたもので、寛保2年(1742)7月6日、松平頼恭奉納。
![日本武尊御神影](img/05.jpg)
絹地彩色絹表装、長さ四尺、幅一尺八寸、『御朱印由緒書』に狩野常真画とある、寛文年間、松平頼重奉納。
![白鳥宮御額題字書](img/06.jpg)
紙地絹表装、聖護院二品動晃法親王(後陽成天皇皇子)御筆、寛文4年、松平頼重奉納。
裏書、「寛文四年辰九月四壬辰日、遍照金剛二品道晃親王書之
三十六歌仙扁額 市指定文化財
桐木地着色、黒塗木枠付、縦58.5センチ、横40.5センチ、昔は拝殿内に掲げられていた。
寛文4年、松平頼重奉納。
画家 狩野永真(安信)
和歌筆者
妙法院宮二品尭恕法親王(後水尾天皇皇子)
(兼輔、敦忠、公忠、朝忠、高光、忠岑)
聖護院宮二品道寛法親王(同上)
(業平、素性、猿丸、遍照、友則、小野)
青蓮院宮二品尊證法親王(同上)
(女御、敏行、宇于、頼基、重之、信明)
曼殊院宮二品良尚法親王(八条宮智仁親王子)
(清正、興風、是則、順、元輔、元真)
桐木地着色、黒塗木枠付、縦58.5センチ、横40.5センチ、昔は拝殿内に掲げられていた。
寛文4年、松平頼重奉納。
画家 狩野永真(安信)
和歌筆者
妙法院宮二品尭恕法親王(後水尾天皇皇子)
(兼輔、敦忠、公忠、朝忠、高光、忠岑)
聖護院宮二品道寛法親王(同上)
(業平、素性、猿丸、遍照、友則、小野)
青蓮院宮二品尊證法親王(同上)
(女御、敏行、宇于、頼基、重之、信明)
曼殊院宮二品良尚法親王(八条宮智仁親王子)
(清正、興風、是則、順、元輔、元真)
![三十六歌仙扁額](img/07.jpg)
三十六歌仙扁額
平成20年 9月、北小路成子奉納。
![猪熊家について](img/stitle07.jpg)
白鳥神社の宮司は代々猪熊家が継いで来た。
![](img/name01.jpg)
兼古は国学、神典に精通しており、承応2年宇和島の和霊神社の創建に参画した。寛文4年、松平頼重に招かれて白鳥神社の宮司となっているが、事前に頼重の委託を受け、唯一神道に基づいて、神社の設計や、運営などを献策した。延宝元年正月、隠居した頼重は聴徳院において、神書、仏典、儒書などを聴講しているが、講義初日の講師として招請せられ、『日本書紀』を講義した。
![](img/name04.jpg)
![](img/name02.jpg)
慶歓の末子。幼名千枝、通称は舎人。明治40年、白鳥神社宮司。
明治39年1月10日、初めて御講書始めに召され、同45年まで連続して7回に亘って『日本書紀』などを御進講申し上げ、また、『古語拾遺』についても御講義申し上げた。なお、明治40年御歌所寄人を命ぜられ、京都女学校教諭などを歴任した。
![](img/name05.jpg)
![](img/name03.jpg)
浅麿の長男。大学卒業後内閣統計局に勤め、昭和8年白鳥神社社掌に就く。故実に通じ斯界の権威者として重んじられた。昭和42年卒。行年68。
![](img/09.gif)
![](img/name01.jpg)
兼古は国学、神典に精通しており、承応2年宇和島の和霊神社の創建に参画した。寛文4年、松平頼重に招かれて白鳥神社の宮司となっているが、事前に頼重の委託を受け、唯一神道に基づいて、神社の設計や、運営などを献策した。延宝元年正月、隠居した頼重は聴徳院において、神書、仏典、儒書などを聴講しているが、講義初日の講師として招請せられ、『日本書紀』を講義した。
![](img/name04.jpg)
![](img/name02.jpg)
慶歓の末子。幼名千枝、通称は舎人。明治40年、白鳥神社宮司。
明治39年1月10日、初めて御講書始めに召され、同45年まで連続して7回に亘って『日本書紀』などを御進講申し上げ、また、『古語拾遺』についても御講義申し上げた。なお、明治40年御歌所寄人を命ぜられ、京都女学校教諭などを歴任した。
![](img/name05.jpg)
![](img/name03.jpg)
浅麿の長男。大学卒業後内閣統計局に勤め、昭和8年白鳥神社社掌に就く。故実に通じ斯界の権威者として重んじられた。昭和42年卒。行年68。