白鳥神社とはAbout

白鳥神社とは

日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の魂が鶴となって降り立った地に神祠を建てたのがはじまりとされているお社。
武芸上達、開運厄除けの神社として広く崇敬されております。

概 要

さぬき十五社 第一番 / 新四国曼荼羅霊場七番札所 / さぬき七福神 恵比須神

鎮座所 香川県東かがわ市松原69番地
祭 神
  • 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)
  • 両道入姫命(フタジイリヒメノミコト)
  • 橘姫命(タチバナヒメノミコト)
境内神社
  • 五宮神社 【祭神】仲哀天皇 神功皇后 應神天皇 稲依別王 武皷王
  • 三社神社 【祭神】吉備武彦 大伴武日 武内宿禰
  • 青山稲荷神社 【祭神】宇迦之御魂大神
  • さぬき七福神 恵比須神社【祭神】恵比須神
境内地 4万坪
氏子区域 東かがわ市松原 白鳥 三本松 原間

由緒・日本武尊の話

日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、12代景行けいこう天皇の皇子で、父天皇命により九州中国を、その後東国を征定しました。帰途、近江の国の伊吹山にて病になり、尾張の国を経て伊勢の国能褒野のぼのに至り亡くなりました。景行天皇の41年です。天皇はその功績をたたえ、式部を定め群臣に命じ、その地に山稜を造り、厚く葬りました。入棺し奉った時に、神霊は白鶴に化して西方に飛び去りました。棺内には何もなく衣冠だけになりました。その白鶴は大和の国琴弾原に行き、また飛んで河内の国旧市村に至り、また更に飛んで讃岐の国大内郡鶴内の里にとまりました。そしてこの地に神陵を建て、成務天皇の時代、天皇の御兄弟神櫛王かんぐしおうに命じて、日本武尊の御子、武鼓王たけみかづちおうに従わせ讃岐の国造に神陵を作らせました。日本武尊の御子は、仲哀ちゅうあい天皇の時代に神籬を立て封戸を寄せられました。今の神社はその御跡であります。その後一盛一衰ありますが、武家は弓矢の神として崇敬されました。寛文4年讃岐守高松藩祖松平頼重公は大いにその規模を広め、社殿の修築を行い領地を割き神陵として寄進し、幕府の朱印地に改めた。明治5年県社に列せられ、現在に至っております。
日本武尊について、『古事記』に次のような神話があります。
大碓おおうす命と小碓おうす命の双生児がいました。しかし朝夕の食事に出ない大碓を、小碓は殺してしまいます。そのことに帝は恐れ、小碓を熊襲くまそ征伐という名目で大和から追放してしまいます。熊襲の国ではタケルの宮殿が新しく造られ、各国造の客人で宴がたけなわです。その時、宮殿が闇となり、その一瞬にタケルが殺されます。そして混乱の中で、自分を討った小碓に、自分の名をとりヤマトタケルと強者の魂を授けました。
大和国に熊襲より帰ったヤマトタケルでしたが、父帝は蝦夷えみし征伐に行けと命じます。ヤマトタケル命は、伊勢の倭姫を訪ね、出発します。相模の国造の計略で四方を火に囲まれ、倭姫にもらった火打石と剣で難を逃れます。
次に走水の嵐の中で橘弟姫は海に身を踊らせ、海を鎮めます。大和への帰りに伊吹山の神の退治に出かけ、病に冒され、能煩野のぼので息を引き取ります。しかし、ヤマトタケルは白い鳥となり、飛び去ったと伝えられています。
そして、「白鳥神社の由緒」により、白い鳥は鶴となり讃岐の国松原村に舞い降りて、白鳥神社として祀られました。


本殿裏回廊に奉納されている「日本武尊熊襲ヲ誅スルノ図」
昭和53年9月30日奉納

日本武尊
平成15年奉納 北小路 紅女

白鳥神社の宝物

かおり風景100選

クスノキ

境内には約十本のクスノキがあり、環境省が選定したかおり風景100選の一つに選ばれています。
中でも香川県の保存木に指定されているクスノキは、樹齢約800年、高さ約30m、境内の森に一段と威容を誇っています。

無形文化財

虎頭の舞とらがしらのまい

虎頭の舞は、白鳥神社秋祭の渡御にお供する獅子舞の一種です。
江戸時代、近松の歌舞伎「国性爺合戦」を取り入れ、少年の和唐内が虎を退治する趣向で、県下でも数少ない舞です。無形文化財に指定されています。

重要文化財

太刀たち

青江正恒作、折紙付、鮫柄紫糸巻、鞘梨子地金葵紋付、黄金作、長さ2尺4寸(72.2㎝)、享保7年(1722年)9月、第三代高松藩主松平頼豊奉納。青江正恒は岡山県青江の住人。鎌倉時代の建久年間(1190年頃)の名刀工として有名です。
『折紙』
「青江正恒  太刀 正真(長さ弐尺四寸少 磨上之)  代金子 拾枚  宝永元年申(1704年)  六月三日、本阿 花押」

市指定文化財

甲冑 白糸縅かっちゅう しらいとおどし

寛文4年11月24日、松平頼重奉納。
同5年1月18日、白鳥神社の神前において行われた、養嗣子頼常の鎧の着初式に着用せられました。

市指定文化財

甲冑 紺糸縅かっちゅう こんいとおどし

葵紋付、藩主着用のものといいます。明治4年10月(一説6年)、第十二代藩主松平頼聡奉納。

市指定文化財

石剱せっけん

長さ1尺2寸(36.7㎝)、幅中央部1寸4分、弥生時代の遺物。享保20年、高松北浜の漁師が、庵治沖の海中より引き揚げたもので、寛保2年(1742年)7月6日、松平頼恭奉納。

市指定文化財

日本武尊御神影やまとたけるのみことおみえ

絹地彩色絹表装、長さ4尺、幅1尺8寸、『御朱印由緒書』に狩野常真画とある、寛文年間、松平頼重奉納。

市指定文化財

白鳥宮御額題字書しろとりぐうおんがくだいじしょ

紙地絹表装、聖護院二品動晃法親王(後陽成天皇皇子)御筆、寛文4年、松平頼重奉納。裏書、「寛文四年辰九月四壬辰日、遍照金剛二品道晃親王書之」

市指定文化財

三十六歌仙扁額さんじゅうろっかせんへんがく


  • 小大君

  • 藤原高光

  • 素性法師

  • 藤原元真

  • 斎宮女御

桐木地着色、黒塗木枠付、縦58.5㎝、横40.5㎝、昔は拝殿内に掲げられていました。
寛文4年、松平頼重奉納。
画家:狩野永真(安信)
和歌筆者:
妙法院宮二品尭恕法親王(後水尾天皇皇子) (兼輔、敦忠、公忠、朝忠、高光、忠岑)
聖護院宮二品道寛法親王(後水尾天皇皇子) (業平、素性、猿丸、遍照、友則、小野)
青蓮院宮二品尊證法親王(後水尾天皇皇子) (女御、敏行、宇于、頼基、重之、信明)
曼殊院宮二品良尚法親王(八条宮智仁親王子)(清正、興風、是則、順、元輔、元真)

三十六歌仙扁額さんじゅうろっかせんへんがく


  • 小大君

  • 藤原高光

  • 素性法師

  • 藤原元真

  • 斎宮女御

平成20年9月、北小路成子奉納。

さぬき七福神

平成13年正月から「さぬき七福神」が開創されました。

恵比須神えびすしん

白鳥神社

布袋神ほていしん

田村神社

福禄寿ふくろくじゅ

滝宮天満宮

寿老人じゅろうじん

與田寺

大黒天だいこくてん

法然寺

毘沙門天びしゃもんてん

香西寺

弁財天べんざいてん

国分寺

七福神詣りとは

七福神とは、それぞれ異なる福を持つ神さまを祀られている社寺を巡拝し、ご神徳を頂く巡拝詣でのことです。巡る順番はございません。年神様がいらっしゃるお正月の松の内の期間(地域によって異なりますが、基本的には1月1日から15日まで)にするとより良いとされております。

七福神巡りの期間については、規定日数内に終えなければならないということはなく、一日で7つの神社をすべて巡ってもいいですし、数日に分けて巡っても大丈夫です。特に「七福満願成就」といって、7社寺を7年間続けて7回巡ることで、より多くのご利益をいただけるとされております。専用の御朱印帳に参拝の証として7回重ね印を押して頂く七福巡拝をしてみてはいかがでしょうか。

三社四寺の神仏混ごうです。それぞれの神社仏閣は、古より篤い信仰を集めており、それぞれの福神を祀る由緒ある社寺です。
七福神それぞれの社寺にて、専用の御帳面に宝印を浄書しております。また、7回ご参拝ごとのカード型の書置きの御朱印も頒布しております。
三社四寺を巡り、香川県の歴史とロマンを楽しみ、ご参拝ください。

猪熊家について

白鳥神社の宮司は代々猪熊家が継いできました。

初代宮司猪熊兼古
兼古は国学、神典に精通しており、承応2年宇和島の和霊神社の創建に参画しました。寛文4年、松平頼重に招かれて白鳥神社の宮司となっていますが、事前に頼重の委託を受け、唯一神道に基づいて、神社の設計や、運営などを献策しました。延宝元年正月、隠居した頼重は聴徳院において、神書、仏典、儒書などを聴講しているが、講義初日の講師として招請せられ、『日本書紀』を講義しました。
十五代猪熊夏樹
慶歓の末子。幼名千枝、通称は舎人。明治40年、白鳥神社宮司。
明治39年1月10日、初めて明治天皇陛下の御講書に召され、同45年まで連続して7回に亘って『日本書紀』などを御進講申し上げ、また、『古語拾遺』についても御講義申し上げました。なお、明治40年御歌所寄人を命ぜられ、京都女学校教諭などを歴任しました。
十七代猪熊兼幹
浅麿の長男。大学卒業後内閣統計局に勤め、昭和8年白鳥神社社掌に就く。故実に通じ斯界の権威者として重んじられました。昭和42年卒。行年68歳。
【公式】白鳥神社公認
キャラクター

白鳥神社や、東かがわ市を盛り上げるため、公認キャラクターが令和2年10月1日に誕生しました。

みゃーまる 白鳥神社の御朱印のはさみ紙から生まれたもちもちのなにか
おとも みゃ~まるの友達のネコやさしい

プロフィール
名 前 みゃ~まる
性 別 なし
身 長 3.6m(普段は15㎝)
誕生日 令和2年10月1日
好きなこと 御山さんぽ
好きな食べ物 ぶどうもち